SNSとコミュニケーション
- けやきのもり あいでる
- 8月21日
- 読了時間: 3分

普段、メールやSNS等のツールで他者とコミュニケーションすることが、一般的となっています。私たちの生活ではスマートフォンを使ったこのようなコミュニケーション方法は私たちの生活の中心にあり、老若男女問わず画面と指の間でのやり取りが頻回に交わされています。
私たちあいでるでも業務用のコミュニケーションツールとしてグループを作成し、情報共有や業務連絡をしています。これは非常に便利であり、ほんの10年前ではこれほどまでに変化するとは想像もつきませんでした。
このようなツールは大多数の人にとって便利なものであり、簡単に自らの意図を他者に伝えることができるため、それほど気を遣うこともありません。またお金もほぼ定額で大きな出費にはなりません。
しかしながら、私がふと疑問に思うのは、このようなツールの出現により、一つひとつの会話の重みが軽くなってはいないだろうかということです。メールでもその他SNSでも、相手の状況など気にすることなく、いつでも送信することができます。また内容に修正訂正が必要な際も、送信を取り消すことで、相手には伝わりません。また相手から届いたメール等の文面も読んでおきながら、返事を返さないいわゆる「既読無視」というような状態も存在します。このようなことは、極端な言い方をすれば、相手の状況や気持ちなどに細心の注意を払わなくとも、言葉を投げかけることができてしまうし、相手への応答も自分の意思でコントロールできてしまうのです。
このことは技術的には非常に便利になった反面、意思疎通の基本である相手に対して誠意をもって応答することが軽薄になったり、人と直接会って会話せずとも意思疎通ができるため、他者と時間を共有できることの有限性や偶然性というかけがえのない経験が空虚なものにならないかと、疑問に思っています。
事実、家族や友人と食事をしても、画面を見たままであったり、「映える写真」を撮ることに一生懸命であり、会話などどうでもよくなってしまって、画面との会話が中心であり、人と同じ時間を過ごしても、一体何のために人と会っているのかわからないような状況も散見されます。
このことが全て悪であるとは思いません。しかしながら、便利さゆえに軽率な言葉何気なく相手に投げかけたことが、デジタルタトゥーとなり取り返しのつかないことになる可能性もあります。
よって結びとしては、SNS等のコミュニケーションツールが一般化している昨今であるがゆえに、画面上の会話のやり取りも、直接対面のコミュニケーションも同等にその一挙手一投足を大切にしたと考えます。直接ではなくとも、画面の向こうに他者という別人格が存在することを忘れてはいけません。
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